岡山ラーメンの歴史インタビュー2
岡山の中華そばは、大正14年から  
ー岡山市新西大寺町「廣珍軒」ー

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はじめに
 岡山の中華そばの歴史をしらべてみようと思い立ちました。浅月、冨士屋、やまと、丸天・・・。歴史のある古い店は多いのですが、このあたりはみな戦後まもなくの創業のようです。では戦前の岡山には中華そばはなかったのか?いやあった、という貴重な情報がよせられました。「戦前の色町への街道であり、物流の玄関口京橋港からの道だった西大寺町と新西大寺町、そこの廣珍軒がいちばん古い」というのです。で、さっそく取材させていただきました。

創業は大正14年
   『廣珍軒』2代目の杉野直樹さん(72)と、3代目になる杉野雅一社長に応対していただきました。さっそくのインタビューです。
 「ええと、いつごろの創業になるんでしょうか?。」
 『親父(杉野一太さん、廣珍軒創業者)が中華料理屋というかラーメン屋みたいなのを始めたのは、たしか大正14~15年だと思う。今の松竹の映画館、銀ビルの裏に帝国温泉という銭湯がありまして、その横町で店をはじめたんです。で、昭和のはじめに今の場所へ移ってきました。私が幼稚園のころでした。』
 直樹さんは子供の頃を思い出すように、遠い目をしてゆっくりと語ってくれました。
 「どうして中華そばを始められたんでしょうか。」
 『親父は兵隊で行ったのが朝鮮でした。除隊して帰って大阪へ出とったんです。でもあの大正の終わりの不景気でしょう。結局帰って来てこれを始めたんです。一生懸命考えたんでしょうね。大阪ではそのころ支那そばというのが売れとったそうです。繁華街や場末でもそばが売れているのを見ていて、帰って始めたんでしょうね。』

戦前は中華そば屋が二軒
   「当時の岡山には、ほかには中華そばというのは無かったんですか?。」
 『ええ、ほかにはあったかどうか?。おばあさんの話では戦前はもう一軒、百万元というのがあったようなんです。今でもあるんじゃあないでしょうか栄町あたりだと思います。そばを中心にしていたのは戦前はうちとその百万元だけでした。
 もう少しあとで私が中学に入った頃、昭和14年頃、そこの伊予銀行の横に銭湯があって、その入り口に屋台のラーメン屋があったのは覚えとります。そのころはぼつぼつ屋台が出来つつあったんでしょうな。』
 『昭和の初めはこの通りは大変な人波でしたよ。中島もあったし、京橋へは諸方からの船が次々に着きよったですからね。』
 どうやら、戦前はこの西大寺町が岡山一の繁華街だったようです。

横浜からの中国人コック
   『昭和九年の水害の後か前かに、岡山で一番立派な建物を建てたわけです。そのころが戦前の最盛期でしょうか。』
 『で、横浜から中国人のコックをつれてきとりまして。それは兄弟だったんですが、それがそばを打つのを子供の私はよく見よりました。』
 『粉を台の上へ盛って、真ん中へ玉子と潅水と塩と水を入れて混ぜるわけです。かなり固いですわね。それを寄せて、もうそう竹の1間もある太いやつを壁の穴へつっこんで、こっちを股へ入れて、踏んで延ばしていくんですな。一枚になるのを2つ折りにしてまた延ばす。適当な固さになったら麺棒にまいてどんどん延ばしていって、薄う薄うしていく。麺の厚さになったらそれを包丁で切っていく。一打ちが2時間くらい、それとワンタンの皮を延ばすのが朝の仕事でした。もう1つは、コークスで火をおこして、豚骨と鶏がらを入れてスープをとりよりました。』
 『味付けは塩が主ですが、チャーシュー麺は醤油を入れます。五目そばの場合は醤油は香りつけにたらす程度だったですね。』
 『その中国人兄弟はその後、戦後になって独立して、現在著名な中華料理の2店になったんです。』

最盛期のメニューに、な、なんと・・・
     
 現社長の雅一さんが、何やらメニューのようなものを出してくれました。
 『中国人が来てからというもの、いわゆる本場のようなメニューを出しています。これがそうで、広東の一流飯店のメニューをそのまま持ってきたようなメニューでしょう。』
 す、すごいものがでてきました。昭和10年頃の廣珍軒のメニューです。鶏之部、肉類之部、海産物之部、そしておめあての蕎麦の部・・とならんで、定餐を入れると合計100品目以上です。大変な高級中華料理店だったようです。
 『この肉糸湯麺(ブタ肉入りのソバ)が15銭、これでも当時のうどんなどの二倍はしていたんでしょうね。』
 ふたたび直樹さんが話を続けます。『こういう料理店ですから、政官界や経済界の有名な方がよくこられました。一方、ラーメンでは六高や医大の生徒さん方もよくおいでになって、いまだにそういう寄り合いがあるんですよ。』  ここで雅一さんがあるものを見つけました。『ここにエビノヒヤシソバってあるけど、戦前にも冷麺があったの?冷麺って戦後に始まったと聞いたけど。』
 『汁の少ない冷たいそばで、わしなんか喰わしてもろたことないわ。40銭もしとろう。寄島から京橋へ上がった新鮮なえびやかにをふんだんに使よったんです。』
 どうやら冷麺もあったようなんです。

 
そしてでてきた「ゴモクソバ」の鉢
    『これが残っていまして。』
 戦災で多くのものが焼失したなか、焼け残ったというラーメン鉢を見せていただきました。今はなんと植木鉢になっているのですが、15銭の湯麺などに使われたものと、50銭のゴモクソバに使われた高級鉢。どちらも中国製のようです。失礼してそのままの姿を写真にとらせていただきました。なかなかのもののようです。

 岡山の中華ソバの草分けという、広東料理、廣珍軒さんにおじゃましてインタビューさせていただきました。(99、10)