不洗中庄西国33観音について

 私が33観音巡りにはまりかけてしばらく経ってのことです。地元の「瀬戸内33観音」も廻ってみようと、ご近所「不洗観音寺(倉敷市中帯江)」を訪れたのです。
駐車場から本堂にいく道すがら、まず目に付いたのが門前にある立派な石仏観音様でした。「一番」とあります。そういえば以前に近くのO家を訪れた時、老夫婦が不洗観音から中庄へかけての石仏33観音の案内を作ったということを聞きました。こ、これはちゃんと取材をしなくては・・・・

不洗観音寺からJR中庄駅周辺へと続く石仏

 というわけで、今回は、Oさんご夫妻の労作「不洗観音寺 西国33観音石仏 巡拝の手引き」に導かれての取材行です。
 Oさんの作成された地図では、不洗観音寺門前からはじまり、駐車場横からゴルフ場のほうへの道沿いに1番から5番。クラブハウス前で右に曲がってゴルフ場内に6〜12番。さらに細い山道を下りて今のマスカット球場横から、宝憧院、倉敷高校横。
そしてJR中庄駅東でJR山陽線をわたり北へ、東六間川手前の30番へと続いています。そして33番が不洗観音寺の西手にあるようなのです。

幕末、動乱の時代に

 いつごろこの石仏群が成立したのだろう?という疑問には、観音寺裏手にある「33番」さんが答えてくれました。1番と同じく立派な観音立像で、他の石仏とは趣を異にします。
 1番と33番とがこうした立派な石仏であることと、不洗観音寺の表と裏にあることとは、この石仏観音の成立に当時の「不洗観音寺」さんが主導権を取られたことを示していると思われます。
 で、33番には「嘉永5年正月」とかかれていたのです。嘉永5年といえば幕末、1852年のことです。諸外国の艦船が周辺に現れ、水野忠邦が失脚、それまで無力だった朝廷が発言し始めた時期です。翌年にはペリーが来航、日本国中まさに激動の時代でした。
 そして、いくつかの石仏の土台には「○○村××兵衛」などと願い主の名が残っていました。

新時代を展望した、3つの時代 

 さきの「帯江西国33観音石仏」が成立したのは明和8年(1771)ですから、それから約80年後にこの「不洗中庄西国33観音」が成立したことになります。「帯江33」は田沼時代で全国飢饉、一揆続発の時代、この「中庄33」は幕末動乱の時代・・・。どこか共通するようではありませんか?。
 一方「帯江33」のいくつかには、大正時代の案内石碑がありました。どうやら、大正時代にもこの「33観音」が流行ったようなのです。大正というと「大正デモクラシー」が想起されます。
 「西国33観音石仏」に代表される3つの時代は、ともに「全国動乱、時代への不安と新時代への希望とが織り交ぜてあった時代」ということができます。そういう時代に庶民に愛された「西国33観音信仰」です。何か現代の四国88遍歴、西国33観音巡拝ブーム・・?と、時代が重なる気がするのですが、そう思うのは私だけでしょうか?(2005,1)