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『恩讐の彼方に』(青の洞門と耶馬溪)

 『恩讐の彼方に』とはまた懐かしい小説を思い出させていただきました。亀山地区土木総代冬の旅行です。目的は湯布院温泉旅行でしたが、途中大分県中津市から山中に分け入って、耶馬溪を目指したのです。その途中にあったのが『青の洞門』、そう、香川県出身の作家菊池寛の出世作ともなった「恩讐の彼方に」の舞台でした。 

江戸から来た僧禅海がノミをふるって30年

 中津市から国道212号線を南へ、山国川をさかのぼって行きますと、5キロくらいのところで左側に断崖絶壁が川に迫っているところがあります。今はトンネルでそこを抜けるのですが、このトンネル、もともとは江戸時代に一人の僧が独力で掘削したところだというのです。名付けて『青の洞門』。当時からこの道は、中津藩(細川、小笠原、奥平氏、5~10万石)から幕府領の日田への重要な交通路でしたが、何しろの断崖絶壁、岩のはるか上に板と鎖を渡し、やっと通っていた所だそうです。人や馬の遭難が数知れなかった難所だったといいます。

 享保20年(1735、徳川吉宗時代)の頃、江戸からこの地を訪れた僧禅海が、人々の難儀を見かねて一念発起、独力でノミを振るってトンネルを掘り始めたのだそうです。最初は笑っていた地元の人々も、次第に協力するようになり、とうとう30年かけて200mものトンネルが完成したそうです。
 現在では広い国道トンネルになっていますが、傍らには当時のトンネル跡や明り取りの窓などが残されていました。
すごい人もいたものです。

実は仇持ちだったお坊さん

 これを取り上げた菊池寛の小説では、禅海というこのお坊さん、江戸の旗本屋敷で働いていたのですが、主人の愛妾と恋に落ち、とうとう主人を殺めて逐電、悔いて出家の旅だったことになっています。当時3歳だった旗本の息子が成人し、仇を求めて全国を遍歴、ついにここのたどり着くも「トンネル完成まであと3年待ってほしい」という禅海の懇願に負け、そのうちトンネル掘りにも参加するようになったとか。発願から30年、ついに青の洞門が完成した瞬間には、その旗本の息子も僧禅海っもともに手を取り合って喜びにむせんだそうです。恩讐の彼方へ・・・、青の洞門は二人の恩讐を流し去って、敵討ちをあきらめさせるにいたったという物語。

 これが実話だったら、さぞかし全日本人の血涙を絞り、忠臣蔵に負けない物語として、あちこちで上演されていたことでしょう。惜しむらくは、菊池寛がもう150年ばかり前に生まれていたら戯作者として??・・・なんてことまで想像してしまった私でした。

耶馬溪は安山岩の絶景でした

 バスは青の洞門をぬけ、耶馬溪へ。奥耶馬渓から、深耶馬溪を通って目的地の由布院へと至ります。聞けばこのあたりは昔は海で、有明海と繋がっていたそうです。阿蘇山系の噴火で2つに分かれていた九州が1つになったときに陸地になったところだとか。あー、すごい大昔のお話ですね。何10万年前のことでしょう。  阿蘇の北東に位置するここ耶馬溪は英彦山と九重山に囲まれた一帯、この地方独特の安山岩が侵食されて見事な渓谷美を作り出しているところでした。見れば阿蘇中岳(1506m)より九重山(1791m)のほうが高い、そういえば阿蘇は陥没したのでしたっけ・・。
 奥耶馬渓の猿飛び渓谷(写真左。これなら奥津渓のほうがすごいという声しきりでしたが)、縦に割れて落下しそうな奇岩を配した深耶馬溪(写真右)、どちらもなかなかのけしきではありました。(2005,12)