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塩飽水軍の本拠地、本島を訪ねて

瀬戸大橋を下から見て

 今日はもといた職場のOB会恒例の歩こう会です。行く先は香川県丸亀市本島。かって「塩飽水軍の本拠地」と言われた島です。といっても倉敷市からすぐ先の島で、児島観光港から定期船が出ています。

 島は瀬戸大橋のすぐ西側とあって、定期船は瀬戸大橋を下側から通過します。橋が開通した24年前以降、何回目でしょうか。下から見る瀬戸大橋。素晴らしいような懐かしいような・・・・。約30分弱の船旅でした。

海の商人たちの島は自治区でした

 最初に行ったのは「塩飽勤番所」。江戸時代、他に例の無い、島民による自治領だったこの本島を統治した政庁で、全国でただ一つしかない貴重な歴史遺産だそうです。中で詳しい説明を受けました。
 「この島は周囲が急流難所ゆえに、操船技術が発達して、秀吉など諸勢力に頼られることになります。広島の村上水軍は武将集団でしたが、この島は塩飽水軍と呼ばれますが、実は戦った記録は無く、輸送集団として歴史的に各勢力に利用されてきました。

 周辺28島のうち7島に人が住み、650人の船方(人名・にんみょう)に領地1250石を与えた家康の朱印状もあります。天領(幕領)でなく自治領でした。従って代官もいませんし税もありません。「年寄」という人名達から選ばれた島の代表者がこの勤番所で自治領を統治しました。
 幕府のいろんな役務が振り当てられ、それにでかける水夫たちの賃金(給金)などはすべて自治領持ちでした。そのため自主的な事業として米の輸送などを引き受けて栄えたのです。」

 おやおや、江戸期に「水夫(かこ)屋敷」としての役割を振り当てられながら、商人として栄えた倉敷と似ていますね。
 会場には秀吉や家康などの朱印状が展示されていました。おや、咸臨丸の模型も?と思ってみると、幕末に太平洋を横断した咸臨丸の水夫50人のうち35人がこの塩飽水夫だったとか。さ~すが・・・。

船大工集団として備中国分寺五重の塔も手がけ

 説明が続きます。「本島の水夫としての役割も時代とともに次第に多様化します。なかで船大工の腕を生かした塩飽大工は有名でした。岡山県総社市の神社仏閣25~6箇所も塩飽大工の作です。備中国分寺五重の塔や吉備津神社などが代表作といえるでしょうか。」  そうですね、我が倉敷の本町など、多くが塩飽大工の作と言われていますよ。すごいですね。

独自の墓制、「埋め墓」

 次に行ったのは「埋め墓」という珍しいものでした。
 島の墓制は独特の両墓制で、土葬が行われていた頃、遺体は山や海岸など集落から離れた場所に埋葬して「埋め墓」とし、寺院や集落に近い所に石塔を立てて「詣り墓」としたそうです。
 この埋め墓は自然石のみを置いたそうです。この埋め墓も最近では火葬になり、周囲に見られるように石塔を立てて、両墓が一緒になってきたそうでした。

国の重要伝統的建造物群保存地区・笠島

 次は町並み保存地区「笠島」です。江戸時代後期から昭和初期にかけての100棟あまりの民家が軒を並べる風情豊かな町並みでした。塩飽大工の本拠だったのでしょうか?

 「国の重要伝統的建造物群保存地区」に指定されているとか。一行からは「ほう!」という声が上がりました。「国の重要伝統的建造物群保存地区」は全国93地区、岡山県では倉敷川畔と高梁市吹屋地区が指定されているのみというものです。その香川県唯一の指定地区がこの本島にあったとは、私を含め参加者の多くが知らなかったようで、感激もひとしおでした。

 写真上右は、笠島近くにあった尾上神社拝殿で、塩飽大工の養成所であった塩飽補修学校の生徒が建てたものだそうです。

年寄りの墓

 経路の途中に立派なお墓がありました。島の代表者「年寄り」の墓で、豪族「宮本家」代々の墓が11基も並んでいました。代々長男は「伝太夫、伝左衛門、伝之祐」次男は「半右衛門」などの名を受け継いできた様子がうかがわれました。

神社境内に芝居小屋も

 最後に訪れたのは「木烏神社」でした。笠石が見事に反った素晴らしい石鳥居、貴重な幕末(1627)の芝居小屋「千歳座」などが見られました。

 この本島、私も初めてでしたが、こんなに近い所にこんなに興味深い歴史があるのに驚くとともに、笠島地区など倉敷に日頃から親しんでいる我にとって、なんとなく親しみがわく島だな~と思いました。

 あ、さすがに経路途中にいきなり磨崖仏や珍しい鏝絵(こてえ)も出現する、歴史深い島でした。(2012,5,1)