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王朝の交替・継体大王の墓
ー大阪・高槻に乱を見るー

 「継体天皇の墓との説がある高槻市の今城塚(いましろづか)古墳で、石室の基礎部分が見つかり、4日、現地説明会が開かれた。現地説明会には、およそ5000人を超える考古学ファンがつめかけ、『謎の天皇』とされる継体天皇への関心の高さを示した。」
 突然の報道でした。うっ、継体?。もしかしたらあの「日本の王朝交代説」の継体大王のことなのかな?。あまり知識の無いまま、「継体=王朝交代」と理解していた私も興味津々、これは出かけてみなくてはなりません。

芥川?あの龍之介との関連は??

 ちょうど3月は青春18切符の季節です。これを利用して行って見ることにしました。瀬戸大橋線から山陽本線へ。姫路の手前の網干で新快速に乗り換えます。大阪から北へ。京都府へ入る手前にあるのが高槻駅でした。そこから西へ歩いて約40分。途中は古い街道のようで、地蔵堂や金毘羅灯篭がなつかしく出迎えてくれました。芥川という大きな川を渡りましたが、どうやらここいらあたりは、この川の沖積平野のようです。あの芥川龍之介とは直接の関連はなさそうですが、けっこう特殊な姓ですので、もしかしたらここらあたりが芥川家の元かも知れませんね??

高槻にもあった金毘羅灯籠芥川
えっ、大王の古墳なのに墳丘がない?

 そして突然その古墳は現われました。でも、ザ、残念。今工事中で中には入れてもらえないようです。垣根越しに見てみました。2つの周濠は目立つのですが、前方後円墳の墳丘そのものはよくわかりません。高さがないのです。どうやら400年前の伏見地震(1596年・M7.5程度)で崩れてしまったようなのです。おまけにその前に大きな盗掘をうけ、石室自体があったのかなかったのか?というような状態だったらしいのです。
 そして今回の調査で石室の基盤(基礎部分)がみつかり、「これは継体陵というのは本当らしい」と大騒ぎになったようなのです。ちなみに宮内庁は少し西の「太田茶臼山古墳」を継体陵としているようなのです。
 この今城塚古墳、墳丘の大きさは190m。2重の堀を入れて、総長350mだそうです。墳丘の大きさとしては、赤磐市の両宮山古墳(193m・5C後半)とほぼ同じ規模のようです。ただこの今城塚古墳のほうがほぼ50年新しいのでしょう。

でもなぜここに継体陵が?

 最初の疑問は、大王の墓が奈良や大阪南部でなく、大阪府の北の端にあるのはなぜだろうということでした。
 継体大王(この時代はまだ「天皇」という称号がなかったので、ここでは「大王」と呼びます)は、第25代武烈に後継者がなかったため、越の国から迎えられて507年に即位したと言われています。ところが即位した後も都は今の枚方市や京田辺市、長岡京市と、大阪と京都の境のあたりにおかれ、奈良に入ったのは526年だそうです。なんと20年もかかっているのです。「従来の勢力と、越前や近江の新勢力が争い、ここで王朝が交替した」という説が有力視される所以です。ついでに言えば「継体」というおくり名自体、むりやり継いだことをあらわしているとも思われますね。
 それで、長く継体側の本拠であったここ高槻の地にお墓も築かれたと想像されます。

古い遺跡の多いここ高槻

 「高槻市埋蔵文化財調査センター」に来てみました。あ、歩いてですよ。これも30分以上かかりました。ここも淀川支流の芥川の谷にある新興団地の中でした。そして「日本で最初に出来た埋蔵文化財センターです。」という言葉には驚いてしまいました。
 いただいた地図では、「東海道線の北側はずらりと遺跡で埋まっている」と言ってもいいくらいの古い遺跡ばかりのところのようでした。センターの展示でも、縄文時代から弥生、古墳時代と、豊富な展示がされていました。
 古くから開けた土地で、継体が大和を攻略?する拠点としたところなのでしょうね。

 今城塚古墳の内部を見ることは出来ませんでしたが、日本の動的な歴史の一端に触れることが出来た、貴重な一日でした。本日の万歩計は19000歩(2007,3)

PS:ここと吉備とのつながりは??。無理矢理関連付けて、「趣味の古代吉備」からもリンクしますかね~。