「遊放ぶらり旅」のページへ戻る

大規模な城跡遺構・大和郡山

 今日はなぜか奈良です。それも大和郡山市。奈良市のすぐ東です。
 ここのお城が素晴らしいらしい・・・と聞いてやってきました。青春18切符を持つ友人に誘われてです。2300円で往復出来ました。850円のボリュームたっぷりで美味しいオムライス付でした。(写真左はJR奈良駅)
筒井順慶からはじまって豊臣秀長へ

 さて、ここ大和郡山城といえば、戦国時代の雄「筒井順慶」から始まるそうです。信長の支援を受けて、松永との決戦をしのいだかれが、ここを根城にしたのだそうです。
 そうして、豊臣時代にはあの豊臣秀長(秀吉の弟)が100万石で入城、城の基礎を築いたそうです。温厚な人柄で兄秀吉を立て、兄を助ける補佐役に徹し後には各大名からも頼りにされる人格者であったという秀長。さぞかし100万石の格式を持った城を構想したことでしょう。
 そして、県庁所在地を外れたゆえに、その後の民家の侵食も少なく、現在の大規模な遺構が残された、全国にも珍しいお城のようなのです。

 実は私はこのことを殆ど知らなかったのです。先年、お隣の大和小泉藩の家老が杉原家だったという情報をたよりに、このあたりを1日徘徊したことはありました。しかしその時は目的を果たさず、がっかりして引き上げたのでした。まさかそのお隣がこうだなんて・・・。

柳沢吉保が神に
 JR大和郡山駅から歩いてお城へと向かいます。途中で出会ったのは多くのお寺さん。「さすが奈良はお寺が多い。また随所に遺跡があるところだなー。」などと感心しながらの旅でもありました。
 途中に「薬園八幡神社」というのがありました。本殿を修築中でしたが、平城京の薬園のお宮とのこと。かっての別当寺が寂しくしていたのがいたわしく、明治の神仏分離の弊害にここでもおめにかかりました。
 お城にたどり着くとまず「柳沢神社」でした。祭神の柳沢吉保は、帯江戸川家の主筋として、私にもなじみ深い人ではありませんか。息子の吉里が甲府からここへ移された(追放された)ということを思い出しました。以後柳沢家はここで明治まで続いたということでした。水戸黄門の敵役・悪役として有名な柳沢吉保が、ここでは神として祀られている不思議さに魅せられながら、城の周りを巡らせていただきました。

本当に大規模な遺構でした
 最初は天守跡など、あ、このていどかな?と見ていました。かえって天守跡の石垣が、野面積みなのですが古いのでグリ石などが失われて、スカスカになっていることなど、残念だなー、などと見ていました。  ところが少し進むと、本当に大規模な堀の跡や、延々と続く石垣の跡など、他の城跡では見られない大規模さに圧倒されてしまいました。すごいです。さすがに100万石を構想したお城だなーとたびたび写真に収めさせていただきました。すごかったです。

野の石仏を石垣に
 もう一つここの特徴は、奈良県には石が少なかったので、野の石仏などを集めて城を築いたということだそうです。これは安土城跡でもありましたが、さすがにここのように天守閣後方に「逆さ地蔵」として祭られているとは、想像を超えました。周り中あちこちから集まった野仏たちの集団でした。

大和郡山城、記憶に残るお城です。
 有名なお城は各地にありますが、ここほどの大規模で、また当時の遺構がよく残ったお城も珍しいのではないでしょうか?。私の近くの岡山城や、あの大阪城と比べてみても、はるかに優れた趣があります。今回足を延ばして来てみて良かったです。写真右は、明治情緒が残る元県立奈良図書館の建物

 青春切符が残ったというだけの理由で誘っていただいた友人にも、本当に感謝感謝の一日間でした。有難うございました。(2009,1)