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山陰の小京都・倉吉をちょっと
伯耆の国府と山上憶良も

 今度は、コロナ禍が少しだけ落ち着き、県内や隣県の旅行が推奨され始めたことで、これまで行きたかった小旅行でもと出かけました。
 何しろ一人5,000円もの補助金が出るという事で。
 以前に2度も行った「三朝温泉一泊旅行」に出かけたのです。
 今回はそのうちで、近くの倉吉市を通過、何だか面白そうでしたので、二日にわたり見学と相成り、まずはそのレポートです。

 「山陰の小京都」と呼ばれる倉吉市。行ってみると奈良時代から平安時代にかけても、伯耆(ほうき)の国の国府として栄え、戦国時代から江戸期、その後も地域の中心として栄えて来たようです。そして今も美しい町並みが保存されている地区として観光客をも集めているようでした。

重要伝統的建造物群保存地区でした

 鳥取県中部の中心地倉吉市は、我が倉敷市と同じ様に、その中心地区「倉吉市打吹玉川」が重要伝統的建造物群保存地区として保存地区に定められていたのです。
 パンフレットでは「保存地区は豊かな意匠を持つ町家が建ち並ぶ本町通りと、土蔵群と石橋が連続する玉川沿いからなる。赤褐色の石州瓦の屋根、軒まわりの回廊状に曲がった腕木や持送り板、腰格子や繊細な出格子等の意匠に地域的特色があらわれている。」 とありました。
 「打吹山」という小高い丘の前に市役所や裁判所など市の中心施設が展開し、その前に県道を挟んで古い美しい町並みがある。というまことに観光地としては理想的な構成の「倉吉」だったのです。

赤い瓦の大きな商家群と、その裏てにある白壁の倉庫群 

 市役所の観光駐車場とおぼしきところに車を止めて、前面の道路を横切り赤い瓦(石州瓦)とシックな装いの商家らしき一帯を少し行くと、用水らしきところへ出ます。
 横を見ると、さっきから続く商家の裏手にある白壁土蔵がずらりと並んでいました。
 壮観ではあります。江戸期に陣屋町として栄えたところなんだと、改めて見入ってしまいました。
 この土蔵、用水にかかる石橋を渡ると中へ入ることが出来、中を通って表通りに出ることが出来ました。
 この美しい町並み、本当にちょっとしか見られませんでしたが、またゆっくりと来たいという気にさせられました。

石臼コーヒー、いただきました

 少々疲れた所へ、喫茶店らしきものが見えてきました。名前は「久楽(くら)」
 中へ入ると、まず小石を敷き詰めた床。そしてその上に超古いタンス類が並んでいます。さらに目を引いたのは、その上に乗った石臼でした。
 「石臼コーヒー」とありますから、コーヒー豆をこれで引いていただくのでしょう。
 「うーん、小さいとき我が家にあった、曾祖母が嫁入り道具に持ってきたというタンスにそっくりだなー。」などと思いながら、いただいたコーヒーは美味しかったです。

最後は横綱「琴桜」と

 この倉吉という街、太古は別にして、14世紀、室町時代に市役所の裏山、打吹山に伯耆守護となった山名氏が城を構えた時から始まったと言われています。
 そして、江戸時代は鳥取藩家老荒尾氏が陣屋を構えたところです。
 陣屋町のほか、この付近の街道の結節点であり、木綿や稲扱千刃(いねこぎせんば・稲の実を取るときに使った農業工具)などの特産品を扱う商業が発達し、明治、大正まで大いに栄えたのだそうです。
 おっと、街の入り口にあったのが、懐かしい横綱『琴桜』の銅像でした。1973年(昭和48)に第53代横綱となり、猛牛と言われて大活躍をした琴桜。この地の出身だったのですね。

伯耆の国司はここでした
 倉吉観光の最中、伯耆の国の国府はここ倉吉に置かれていたことが判りました。
 今の鳥取県の西部をさす「伯耆の国」。奈良時代から平安時代にかけて「伯耆の守」が中央からきて、ここ倉吉にあった国府・国衙(官庁)で政務を司ったのでしょうね。
 当時の「国の格」としては、伯耆の国は「上国」とされているようですから、国衙も結構大規模だったのかもしれません?
 というわけで、最近発見されたという伯耆の国の官庁群跡を見に行くことにしました。
 現在の倉吉市街の西方に「国府(こう)」という地名があり、その近辺に国府のあとが拡がっていました。まずは国分寺跡。左が「柵列跡」とありましたから、何か塀か廊下の跡でしょうか。右は「塔の跡」です。お寺跡としては結構大規模なものと感じました。


 次に「法華寺畑遺跡」と呼ばれる大規模な官庁跡遺跡です。最近の発掘でいろいろなことが判っているらしく、詳しい説明の展示がありました。


 最後に少し奥に進んだところにあったのが、「国庁跡」です。現在で言えば県庁跡でしょう。
 全体が少し高く盛り上げられた、大規模なものです。写真のように今はただの草原ですが、当時は273m×227mという大規模なもので、その中心部に写真右のような建物があったと想定されているようです。
 あれっ、これって計算してみると、61,971㎡ですね。広さの単位でよく使われるのが「東京ドーム」46,755㎡ですから、その約1.3倍・・・・・・す、すごい。
 「伯耆の守」といえば、一時「山上憶良」が就任(716)したことがあるようです。も、もしかしたら山上憶良がここへ来て、う、歌を詠んでいたのかも知れませんね。またまた、す、すごい!!!!
 あー、詩の知識が無いのが悲しい・・・。
 今回の旅行、思わぬ「国府跡」という私にとって何とも興味深いものが出てきて、幸せそのものでした。(2022,6)


 下記は、倉吉市街の地図です。