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岡山市庭瀬と撫川は街道筋と陣屋町でした

 朝早く、JR庭瀬駅前に集まったのは、私の元業界OB会の面々約30人でした。そう、みんな暇なんです!あ、失礼、古い町並みや陣屋町の残る「庭瀬」に興味があったからに違いありません。

庭瀬往来から歩き始めました

 初めは「庭瀬往来」に沿った散策になりました。庭瀬は江戸時代に備前岡山藩が 飛地領の鴨方(今の浅口市)との間の交通の便のために、岡山県南に独自開発した街道で、江戸期の主要道のひとつでした。その庭瀬部分が「庭瀬往来」と呼ばれていたようなのです。
 なるほど、古い良き?町並みが続きます。おや、「味噌」「麹」「そして「くすり」・・・いかにも時代を感じさせる古い看板です。いつまで営業されていたんでしょうか?


 桜も庭瀬を誇るように、今盛りです。
 途中にお寺さんがあり、かたわらの廟に中に「庭瀬藩主宗廟・板倉久勝」という看板がかかっていました。旧庭瀬藩はたしかに1699年から1871年まで板倉氏2万石がいましたよね。江戸期に庭瀬を領した戸川、久世、松平、という他の領主に比べると、一番長いた藩主たちだったのです。でも、藩主の名に「久勝」というのはみあたりません。なぜ!
 ネットで探すと平成15年の「大阪ほたる展(矢掛町)」の来賓の中に「旧庭瀬藩板倉家板倉久勝」という名が見つかりました。では、この宗廟は板倉家ご子孫の方が先祖を祀るために建てられたもののようです。

庭瀬港あとには大きな常夜灯が

 歩いていると、少し広い池のような所に出ました。大きな灯篭(常夜灯)があります。「庭瀬港跡」だそうです。庭瀬は戦国末期にお城を築いたころは珍しい湿地帯の城でした、ここが大きな港になっていたということでした。今の庭瀬からはとても想像出来ないようなこと、やはり歴史散策は面白いです。

ちょうど、お釈迦様の誕生日でした

   今度は「信城寺」というお寺さんです。珍しそうにのぞきこんでいると中へ、それも本堂内に招き入れられました。そういえば今は4月8日。お釈迦様も誕生日、花祭りです。みんな美味しくあま茶とお菓子をいただきました。ご馳走様でした。
 このお寺さんの中には、すぐ前にあった庭瀬往来の大きな石灯籠が移されていました。

庭瀬往来、金毘羅往来の石灯籠と道標が

 道はここから足守川にかかります。その前、街の中に石灯籠と道標があります。道標には「金毘羅」「吉備津」の文字が。あ、もう金毘羅往来にかかったのですね。当然石灯籠には「金毘羅大権現」と。もちろん「金毘羅灯篭」です。
 ここでちょっと寄り道。近くのRSKバラ園まで足を伸ばして、お昼をいただきました。


撫川城址は濠に囲まれていました

 午後は少し南へ下がったところから、今度は東へと歩きます。まずは「撫川城址公園」でした。何とちゃんとしたお濠に囲まれた本丸跡です。かっては庭瀬城の本丸で、江戸期になって旗本撫川戸川氏の陣屋となっていたところのようです。私にとって戸川氏は懐かしい名前です。すぐ隣の「庭瀬城址」は元2の丸で、江戸期の戸川氏、板倉氏など2万石余の大名の居城とされていたのです。

「撫川うちは」は旧職場の先輩のおうちでした

 撫川の名物「撫川うちわ」。江戸時代の武士の内職として続いていた伝統工芸品です。
上部に透かし技法で、俳句が浮かび上がっています。私が旧職場に入社してまもなく、坂野さんという大先輩が「撫川うちわの伝統をひきつぐため」にと、退社されていったのを良く覚えています。そのお宅は「撫川うちわ製作技術再興の地」として、撫川城址のすぐ前に保存されていました。今にも坂野さんの少し面長でおだやかそうなお顔が目に浮かぶようです。

庭瀬城址も懐かしいところでした

 前出の庭瀬城址。以前に「備中領主戸川氏のこと」という本を出すのに関わったとき、何度も訪れた懐かしいところです。たしか「城のうち」とかいう小字らしい地名もあったように思い出しました。  あら、ここへも古代ハスが植えられたのですね。

 最期にこの地の最初の領主、戸川氏の菩提寺であった「不変院」を通り抜けて、庭瀬駅へ。街道筋と陣屋街、多くの風情を残した庭瀬の街、興味深く、また楽しい一日の歩きでした。(2013,4)