岡山市庭瀬と撫川は街道筋と陣屋町でした |
朝早く、JR庭瀬駅前に集まったのは、私の元業界OB会の面々約30人でした。そう、みんな暇なんです!あ、失礼、古い町並みや陣屋町の残る「庭瀬」に興味があったからに違いありません。
初めは「庭瀬往来」に沿った散策になりました。庭瀬は江戸時代に備前岡山藩が
飛地領の鴨方(今の浅口市)との間の交通の便のために、岡山県南に独自開発した街道で、江戸期の主要道のひとつでした。その庭瀬部分が「庭瀬往来」と呼ばれていたようなのです。 |
歩いていると、少し広い池のような所に出ました。大きな灯篭(常夜灯)があります。「庭瀬港跡」だそうです。庭瀬は戦国末期にお城を築いたころは珍しい湿地帯の城でした、ここが大きな港になっていたということでした。今の庭瀬からはとても想像出来ないようなこと、やはり歴史散策は面白いです。
今度は「信城寺」というお寺さんです。珍しそうにのぞきこんでいると中へ、それも本堂内に招き入れられました。そういえば今は4月8日。お釈迦様も誕生日、花祭りです。みんな美味しくあま茶とお菓子をいただきました。ご馳走様でした。
道はここから足守川にかかります。その前、街の中に石灯籠と道標があります。道標には「金毘羅」「吉備津」の文字が。あ、もう金毘羅往来にかかったのですね。当然石灯籠には「金毘羅大権現」と。もちろん「金毘羅灯篭」です。 |
午後は少し南へ下がったところから、今度は東へと歩きます。まずは「撫川城址公園」でした。何とちゃんとしたお濠に囲まれた本丸跡です。かっては庭瀬城の本丸で、江戸期になって旗本撫川戸川氏の陣屋となっていたところのようです。私にとって戸川氏は懐かしい名前です。すぐ隣の「庭瀬城址」は元2の丸で、江戸期の戸川氏、板倉氏など2万石余の大名の居城とされていたのです。
撫川の名物「撫川うちわ」。江戸時代の武士の内職として続いていた伝統工芸品です。
前出の庭瀬城址。以前に「備中領主戸川氏のこと」という本を出すのに関わったとき、何度も訪れた懐かしいところです。たしか「城のうち」とかいう小字らしい地名もあったように思い出しました。 あら、ここへも古代ハスが植えられたのですね。 最期にこの地の最初の領主、戸川氏の菩提寺であった「不変院」を通り抜けて、庭瀬駅へ。街道筋と陣屋街、多くの風情を残した庭瀬の街、興味深く、また楽しい一日の歩きでした。(2013,4)
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