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琵琶湖の東西に立っていた2つのお城

 新西国三十三観音というのは、本当に有名寺院の多いルートですね。第18番は「比叡山延暦寺横川中堂」だそうです。京都と琵琶湖の間にそそり立つ比叡山。その上に広がる天台宗の総本山延暦寺。なかなかすばらしいところでした。
 そして、今回はそこから東へ下ったのです。あの明智光秀が拠点とした坂本が見たい・・・今回の旅の動機でございました。

中世までは文化の中心『坂本』

 比叡山から東へ下りますと、雄琴温泉という歓楽街で有名なところ?に出ます。その北の堅田というところには琵琶湖大橋がかかり、たもとの道の駅は多くの釣り客でもにぎわっていました。
 そしてその南に『坂本』の街が広がっていたのです。江戸時代になって南の大津が街道筋ということでにぎわう前は、この坂本が近江の文化の中心地として、また比叡山延暦寺の門前町として栄えていました。
 坂本城はわが岡山県津山市とも縁の深い森蘭丸の父森可成が最初に築城しています。そして1571年の織田信長叡山焼き討ちのあと、明智光秀が廃墟と化したこの坂本に入って、坂本城を築きなおしたのをはじめ、街を再建したのだそうです。
 国道161号線沿いに「坂本城跡」がありました。水城で、今では多くの遺構が琵琶湖の中だそうです。そして、山側にもう1つの城があって、かっては山城、水城と対になったのが坂本城だったそうです。
 光秀はその後秀吉に敗れて、坂本城も1585年には取り壊されてしまいます。しかしその後もこの坂本の地は比叡山の東の玄関口として長く栄えたそうです。今もこちらから上がるケーブルカーが延暦寺近くまで通じていました。
 光秀の菩提寺「西教寺」には光秀の墓もありました。またふもとの日吉神社(ひえじんじゃ)もかって延暦寺と一体となって栄えたといわれます。
 江戸時代に入るとこの地の商業や交通の中心地が大津に移っていきます。延暦寺も江戸初期は衰退していたのですが、後期になってやっと復興し、坂本も門前町として再び栄えたようです。
 余談ですがあの坂本竜馬の先祖は、この坂本落城のとき土佐に逃れた明智の遺臣で、それで坂本を名乗ったと言われているそうです。やはり現地に来るといろんな情報に接することが出来て嬉しいですね。

 坂本城跡光秀の墓日吉神社

石垣職人の地『穴太』(あのう)のこと

 坂本の南部を穴太(あのう)といいます。穴太の村主(あのうのおぐす)など渡来人の多いところで、早くから開け、お城の石垣建造の職人集団「穴太衆」で知られたところです。実は私はここへも来たかったのです。
 『穴太積み』といわれる石垣技法は「大きい石と小さい石を組み合わせ、全体としてよくまとまり、奥行きもたっぷり持たせてどっしりとした重みがあり、美しい絵模様のような積み方で強くて美しかった。」といわれます。この穴太や坂本の人たちが、全国で城作りに活躍、一気に有名になりました。熊本城、名古屋城、篠山城などが代表例とされたいますが、この後で行く安土城やわが岡山城の石垣などもこの穴太積みといわれています。
 先年までは、この技法を受け継いでいた人が1人おられたようですが、今はどうなんでしょうね?現地は家々の石垣にその後が残るのかどうか?町おこしの様子もありませんし、現地に立って少し悲しい気がしてしまいました。

天下人の夢の後、安土城

 ここまできたら、当時湖の西と東にそそり立っていた2つのお城の1つ、安土城も見たい!!。琵琶湖東岸に渡ってしまいました。比叡山のすぐ下であった坂本城とちがって、こちらは広大な近江平野の真ん中です。織田信長が天下統一の拠点として、およそ200mの小山(安土山)に1576年から3年かけて築いた、わが国で初めて天守閣を持った豪勢なお城でした。
 しかし完成からわずか3年後の1582年、信長死去とともに1夜にして焼き払われてしまいます。誰が焼き払ったかは長男の信雄説、敗走する光秀軍説など諸説あるようで、まだ謎のままだとか??。
 今は大手筋の石垣も復旧整備され、見学できるようになっていました。大手の両側に羽柴秀吉と前田利家の屋敷を配し、雄大な大手筋や、巨大な天守を想像させる遺構など、興味深いものでした。
 もちろん「穴太積み」の地を訪ねたあとだけに、見事な石垣の様子はじっくりとながめさせていただきました。  当時、琵琶湖の東西に立っていて、ほとんど同時に焼けてしまった2つのお城。その主の運命とともに、世の移ろいのはかなさをも感じさせられた今回の旅ではあります。(2006,9)

 大手筋天守閣跡羽柴秀吉屋敷跡