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楠木正成の拠点、「千早赤阪村」のこと

 今回の新西国三十三観音巡りの途中で立ち寄りました。実は「道の駅千早赤阪」があるというので行って見たのですが、「日本一かわいい道の駅」と自称するだけあって、本当に小さい、それにメインの道路からかなり離れていて寂しい限りです。それでお泊りは近くの「道の駅かなん」にして、早朝に訪問して散歩することにしました。大阪府唯一の村千早赤阪村のホームページもどうぞ。

楠木正成生誕の地

 ほとんど平らなところが無い、山間の集落のかたまり。それが千早赤阪村でした。
 中心部に道の駅とともに、あの南北朝時代、南朝方の有名な武将、「楠木正成生誕の地」という碑がありました(右はその公園)。周辺には郷土歴史館や「くすのきホール」などいくつかの文化施設が固まっています。

楠木正成は「サンカ」の棟梁??

 実は私、つい最近までは楠木正成について、「当時でさえ時代遅れだった絶対君主制を復活させようとした、後醍醐天皇に味方して敗れた気の毒な人」 という認識だったのです。
 しかしこの前、ある小説を読んで見方が変わりました。その小説では楠木正成について、「当時のサンカ(山の民)や河内周辺の賎民の棟梁で、武士の支配に反旗を翻したのだが、結果として南朝方に味方するようになったこと。それが明治になって意に反して大忠臣として祭上げられたこと」などが描かれていたのです。
 歴史を少しづつ勉強し始めた私にとって、何となく信じたいような、しかしどうなんだろうと確信は無い説です。というわけで、今回千早赤阪村へきたのです。

赤阪城は、なるほど要害堅固でした

 「昔の楠木館はどこですか?」と聞いてみました。「あの谷の向こうに平らな山があるでしょう。一番左が中学校で、ずーっと行って右端の赤い建物の近くまでがそうだと言われています。」とのこと。ちょっとわかりにくいですが、上の写真がその一望です。車を置いて朝の散歩に谷を越えて出かけました。
 中学校の校舎の間から上がっていくと、まもなく上に出ます。「赤阪城址」とあります。案内の地図では「下赤阪城址」とも。周辺にもう2つの城跡があるようです。ここが今から800年前、鎌倉幕府の雲かのごとき大軍を一人でひきうけ、2度にもわたって長い間耐え抜いた楠木正成の拠点だったのです。表側は急峻な崖です。裏側も谷になり「下赤阪の棚田」という美しい風景が広がっています。山上も起伏に富み、守るには適したところのようです。
 ここで「やあやあわれこそは・・・」と名乗りあっての一騎打ちが基本だったという当時の戦法を、総力戦に一変させたという闘いが繰り広げられたのです(詳しくは太平記などをどうぞ)。「大楠公」でなく「サンカの棟梁楠木正成」でなくては、なせない戦いに違いありません。

 現地を見てちょっぴり楠木正成ファンになった私でした。(2006,5)