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中世港町の絶景時計・鞆の浦

 地元の、老人会一歩手前の親睦会です。その名は「亀竜会」。で、今日は秋の親睦旅行。30人近くが参加して、福山市鞆の浦への日帰り旅行でした。中世、いや古代以来の瀬戸内の有名港へのいざないでした。

鞆は古寺の街・安国寺恵瓊のこと

 まず案内されたのは安国寺です。安国寺といえば私の頭に浮かぶのは、あの高松城和睦を取り持った安国寺恵瓊のことです。同じ人かな?という疑問は最後に解消されました。「安国寺は室町時代に全国68箇所の海上交通の要所に定められました。この釈迦堂は善光寺形式で、本尊の光背の高さは3.3mと、木造としては全国最大のものです。戦国時に一時荒廃していたお寺を中興の安国寺恵瓊が再建しています。」とのこと。納得でした。

移動式能舞台・秀吉ゆかりだそうです

 こうして歩いてみますと、ほんとうにお寺さんの多い街です。安国寺、正法寺、本願寺、大願寺・・・10いくつのお寺さんが文字通り軒を連ねています。おっと、正法寺には、葉の裏にお経を書くという  という木がありました。
 少し入ったところにある「沼名前(ぬなくま)神社」、一段下がったところに立派な能舞台がありました。元は京都の伏見城にあった秀吉ゆかりのもので、秀吉があちこちの戦いの場に持ち運んだ移動組み立て式の能舞台だそうです。江戸初期に伏見城を解体した時にここに移されたものとか。今でも年に何回か使われていると聞きました。

山中鹿之助ここに眠る

 寺々の奥には、平安末期に平通盛?が源氏の手を逃れて移り住んだと言う平家谷もあるとか。そして、静観寺前には山中鹿之助の首塚がありました。尼子の最後の武将山中鹿之助が囚われた後に惨殺され、ここでこれも京都から落ち延びてきていた将軍足利義昭が首実検をしたそうです。ちなみに足利義昭はここで12年間の亡命生活を過ごしたとか。やはり鞆の浦は歴史豊富なところですね。

保命酒の大田家住宅

 大田家住宅というところへ案内されました。もとは中村家といい、江戸時代の庄屋家だそうです。保命酒という14種類の薬草を混ぜ込んだ薬酒の元祖で、有名な養命酒もここから分かれたそうです。もっとも養命酒は12種類の薬草ということで、一家相伝の2種は持ち出されなかったというお話がありました。ガイドの85歳になると言うご老人は「私が元気なのは、この保命酒ゆえです」といっておられました。
 私個人は、以前に養命酒を飲んだ際、全身に発疹が出て、以来こりごりでしたから、あまり興味はわきませんでしたけど。

絶景が日時計になっていました

 対潮楼というところへ案内されました。古い建物ですが、そこの座敷から鞆の浦の景色が一望できます。窓枠がちょうど額縁の役目をして、仙酔島と弁天島が一幅の絵となり、まさに絶景です。平安以来ここで何人の人々がこの景色を眺めてきたのでしょうね。
 名物おじいさんの解説が始まりました。「あの仙酔島の右の端、あそこから太陽が昇る日は冬至です。・・・・弁天島の上がちょうど春分の日、秋分の日です。そしてあの左が・・・。というようにこの一幅の絵が太古以来の暦になっているのです。」いかにも名調子です。ききほれているうちにあっという間に時間がすぎてしまいました。

坂本竜馬もここに足跡を

 「いろは丸展示館」というのが海岸にありました。あの坂本竜馬がいろは丸という商船に荷を積んで通りかかったときに、紀州藩の船と衝突沈没したのだそうです。竜馬はこの鞆に上陸して紀州藩との交渉にあたったそうです。いろは丸を海底で発見して遺物を引き上げる様子や、竜馬の隠れ座敷が再現されていました。

昼食は薬膳料理?で

 昼は鞆シーサイドホテルでのバイキング料理でした。
 海岸ということで、新鮮な魚が出ると期待していた一同の期待は裏切られ、「100種類の旬と安全素材」といういわば薬善料理三昧でした。体にはいいのでしょうけど・・・。私自身もたまにはいっぱいお刺身が・・と思っていたのですけどね。やはり保命酒の本場鞆の浦ということがあったのでしょうか。
 まあ、お酒をけっこういただきましたから、文句も言えませんが??

PS:ということで、この日はあと、鯛ちくわのメーカー、バラ園、松永のはきもの博物館などを見学の後で帰路。お疲れ様でした。(2007,11)