そしてまだ奥があるのです。うっそうと杉が生い茂り、真っ暗なところ。少し開けて晴れていたら景色がいいだろうなというところ。結構変化にとんだ道で、アップダウンが続きます。奥千本が近づいたところに「金峯山50回踏破供養等」といったものが数個。すごい、熊野までの「吉野奥駆道」を50回踏破したのでしょう。私など中千本からここまで歩くのさえ、足がよれよれなのに、まだまだ数日山道を歩きとおされたのですね。すごい!。
そして金峯神社にようやく到着。ここにはあの源義経が兄頼朝の追っ手を逃れて逃げ込んだときの「隠れ塔」がありました。また途中上千本には、義経の従者が追っ手を目指して矢の雨を降らせたと言うところもあり、義経伝説の地でもありました。
道はここからさらに、「吉野熊野奥駆け道」として、吉野の峰峰をたどって、熊野3山までたどり着くのです。今回世界遺産へ登録されたこともあるのでしょう。この日も何人かこの道へ挑戦されるひとに出会いました。
奥千本近くには「○○坊」というお寺の跡が。説明を見ますと「明治政府の廃仏令で廃寺に」なったとか。上千本のところの世尊寺跡も同様で、ここには巨大な鐘が残されていました。あとで金峯山寺でも、この明治政府の反動政策の影響を、いろいろと聞かされました。なんと「修験道禁止令」まで出されたようなのです。南北朝のときに南朝を擁護したりして、この修験道の本場吉野は明治政府にとっても聖地ではなかったかと思われるのですが、「富国強兵」のために逆に弾圧されたのですね。私も新しい発見でした。
中千本の上側の道には、多くのお寺さんが並んでいました。そのうちの1つ、「喜蔵院」というところでは、「熊沢蕃山が難を逃れて居住した」とありました。熊沢蕃山といえば、岡山の江戸期の偉人です。驚きました。どうやらあの由井正雪事件で関連を疑われたようなのです。新発見でした。
しかしこの吉野山、修験道の総本山としての顔がメインのようでした。金峯山寺蔵王堂を訪ねたとき、つくづくとそれを知らされたのです。役行者(えんのぎょうじゃ)が開き、根拠地としたこの吉野。全国の修験道、すなわち山伏たちの本拠地でもあるらしいのです。私たちにとっての「修験道」「山伏」というのは、かなり特殊な宗教という印象があるのですが、どうやら違うようなのです。
「修験道」とは、日本古来の山岳信仰、神道や、仏教、道教、陰陽道など、当時の日本にあったさまざまな宗教を包含する新しい宗教として、平安時代に役行者が開いたもので、日本の多神教社会を形作るものとして、江戸時代までは庶民のなかに絶大な影響力を持ってきたものだそうです。自然の中での修行を通じて、自分の精神世界を形作る・・・。自然との共生社会をも代表するものだそうです。
キリストだ、マホメッドだと争いの絶えない今の世界で、日本は「八百万(やおよろず)の神」「多神教民族」として、世界平和に果たす役割は大きいと思うのですが、その代表例が修験道とは、私も初めて知った驚きでした。
吉野・熊野・高野山とその参詣道が世界遺産に登録されたようですが、「多神教」の修験道、もう少し知りたいものだという気をおこさせた、今回の吉野山訪問ではありました。
参考文献
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金峯山寺蔵王堂 | 明治になってお寺から神社にされた「吉水神社」 |
かっての吉野が「修験道」の聖地で、一種の治外法権の地であったがゆえに、多くの人たちが逃げ込んで隠れ住んだということはわかりました。
そして今回の旅行で私が理解したことがもう一つ。ここの土質のことでした。
上に上がると、道々岩盤が露出しているところがありました。水成岩で層を成していて、触るとボロボロと崩れるのです。そうなんです。吉野は山が柔らかく、道を着けたり建物を建てるために整地するのが、やさしかったのです。そして山中にもかかわらず古来から人が住んできたのでしょう。私の住む吉備の山の岩だらけのところとの違いが発見できたのも、今回の旅行の収穫でした。(2006,5)
右は吉野にある「後醍醐天皇陵」です。横には「宮内庁吉野部事務所」というものもあって、職員が常駐しているようでした。