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ムスタンの農場に生涯かけた日本人
ネパール旅行記6

日本の農業政策に絶望しましてな

 白ひげをたたえた「近藤のじさま」はツアーのみんなを前に静かに語り始めた。「私はその昔、新潟大学農学部の助教授で、県の課長職にも転じて日本の農業政策についていろいろ論じたり提言していたんです。日本の農業を立ち行かすには、伝統を重んじたそれなりのやり方があると。」
 ここはジョムソン空港近くのNPO法人MDSA(ネパール・ムスタン地域開発協力会)のネパール事務所の一角。今日は「近藤のじさま」こと近藤享氏(84)に私たちは夕食に招かれていたのだ。前にはMDSAの農場で取れた作物による料理がずらりと並べられている。美味しい。もちろんビールも。
 「しかし日本の農業政策は、ただ欧米のまねをして、ただ大規模化を図れと言うことでした。ために日本の農村はどんどん荒廃していくばかりなんですよ。食料自給率も40%を切るまでになってしまった。私の主張なんかどこも受け入れてくれない。それならヒマラヤへでも行って、荒地に農業を広めようと思ったんです。幸い農業技術では人に負けないものを持っていましたからな。」
 いただいた名刺には、MDSAのことを「ヒマラヤの寒村に学校建設と緑化をすすめる会」と書いてある。そういえばマサミさんから、もう15を越える学校を建てていると聞かされたような。近藤享氏は理事長。
 「1975年でしたかな。JICA(国際協力機構)の事業の1つとして、果樹の専門家としてこのネパールへ来たんです。サンキストオレンジを品種改良して根付かせたりしました。」あくまでも物静かだが、84歳の年齢を感じさせないしっかりした声で話す近藤享氏である。

さらに高いところの農場の話

 「15年前にこのムスタンのジョムソンにやってきたんです。ここの農場でこういういろんなテストをして、7年前からアッパームスタンへ上がりました。標高3500~4000mのガミというところに大きな農場を作りました。りんご園だけで50haです。寒暖差が激しいですから、それは美味しいりんごが生りましたよ。世界一高いところでのりんごやメロンです。酪農もあり、ホルスタインは24頭になりました。餌はほとんど自給しながらやっています。」
 あ、それではここよりももっと1,000m近く高い・・・というより、富士山の頂上のようなところに農場を開いているんだ。これはもう、恐れ入るしかありません。「人の生活のある」ところへはどこへでも行く人のようである。
 「このMDSAは、今や日本のNPOで最大のものになりました。全国で67支部あります。私はここで4つも5つも世界記録を持っているんです。それらはみな、日本農業の先輩たちが築いた農業技術によるものです。日本の農業技術は素晴らしいものです。ところがその日本の農村がいまや荒廃してしまっている・・・。」
 参加者一人一人への質問も交えながら、熱っぽく語る近藤さん。私が「あの漢詩は先生のですか?」と水を向けると、「そうです。今の日本には漢詩を作る人は少ないでしょう。」と嬉しそうに読み上げられました。私には最後の「・・・・徒手空拳 至誠通天」の1行が、近藤先生の叫びのように聞こえました。
 先生が最後に「憲法9条は絶対に守らなくてはなりません。」と力説されたこの会は、先生の「惜別の歌」で終わりました。「遠き別れに、たえかねて・・・」何番まであったのでしょう。最初は連れて口ずさんでいた私達も歌詞が出なくなり、心にしみいるような先生の歌声は参加者に多くのものを残し、しんしんと更けていったネパールはムスタン、ジョムソンの夜でした。

 翌朝、帰りの飛行機を待つ私達をさっそうと白馬にまたがった近藤のじさまが見送りにこられた。彼はまもなくここから40キロはあるアッパームスタンのガミへ、この白馬を駆って上ってゆき冬を越すのだそうである。なんともすごい人である。(2005,11)

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