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 レンタカーでの沖縄旅行 3日目 
 巨大ダンプカーの数、数、数
その実態は巨大米軍基地建設でした

沖縄旅行レポート3
 さて、沖縄旅行三日目です。

 もとへ!!ここからは二日目のことです。水族館への道中、凄いものに出会ったのです。
 四車線の中央二車線をほぼ独占している巨大ダンプカー。その数、数十台。小さなレンタカーで観光している私たちには「怖い怖い」。ふと周りを見ると、山々が段がついて、大きく削られています。もちろん本部半島の西部分です。これ何??? 

 少し行くとポスターや幟が集中して『辺野古(へのこ)への土砂運び出すな』なんて書いてある所がありました。そうなんです。今沖縄では新しい米軍基地のために海を埋め立てている最中。反対運動も続いていると聞いているのです。そこが辺野古と言ったんです。
 何でも見てやろうと言う私です。行ってみよう。もう止まりません。ナビに「辺野古」とだけ入力して走り出しました。


さて、次は『辺野古新基地』です

 おや、ここ?ちょうど沖縄本島を西から東へ突き抜けた所にその米軍基地はありました。
 上の写真は、ゲート前テント村に掲示してあった新基地完成予想図です。この日私たちがお寄りしたのは、中央部下、「メインゲート」とか「ゲート前テント村」とか書いてあるあたりです。
 白くX字型の巨大滑走路が記されていますね。

 また、上の海は大浦湾です。
 このあたりの海は、長い年月をかけて自然が作り出したいろんな海の生物が生きている海だそうです。広がるサンゴ礁だけでなく、絶滅危惧種のジュゴンのえさ場でもあり、藻場(もば)、砂場、泥場など多様な環境があり、2000年には国際自然保護連合(IUCN)が、辺野古新基地建設計画を受けて、日本政府に対し「大浦湾を含む沖縄北部一帯の自然環境の保護、およびジュゴン、ノグチゲラ、ヤンバルクイナの保全」を勧告したそうです。
 こうした世界の動きや、日本や、沖縄の人々の反対の中でも、米軍や日本政府はこの巨大基地を強行しているのです。


 ということで、何でも見てやろうという私たちも、ここへ着きました。
 左に基地のゲート。このメインゲート以外の出入り口にはカードマンか誰かがずらりと並んでいます。
 道の右には「ゲート前テント村」です。今まさに土砂運び入れへの抗議運動を終えたばかりなんでしょうね。数十人もおられるでしょうか。人々がぞろぞろと帰路に着いたばかりのようでした。しばし車を降りて見学です。


極東最大の米軍基地『嘉手納飛行場』です

 というわけでこの日二日目は辺野古から、元の道を名護市外へ。そして迷い迷いながらの西海岸恩納村のホテル着でした。


 三日目は、予定を変更して、まずは極東最大のアメリカ空軍基地「嘉手納飛行場」です。
 沖縄戦の直後、旧日本陸軍中飛行場を接収し、その後拡張した基地です。3,688mという滑走路を2本有し、日本の米軍基地として最大のものです。
 勿論あのベトナム戦争の時ここから巨大爆撃機B52が発進して、ベトナム中へ爆弾をばら撒いたというあの嘉手納です。
 米軍関係がほとんど載っていない観光ガイドブックを見れば、かすかに「道の駅かでな」というのがあって、嘉手納基地を見るのに最適と書いてあるではありませんか。おや、基地も観光コースになることがあるんだ????と。
 これまた「ナビ」に頼ってやってきました。
 嘉手納町から沖縄市にかけての巨大基地。おや、この辺りはなぜか道路が広いみたいですね。
三階建ての道の駅は基地の北西部横にありました。4回の展望所からは、「嘉手納が一望」と言いたいのですが、海のそばまで広がる右側はとても見えない!!!。それよりこの道の駅、基地周辺の植え込みを避けて見えるように、今回新築されたように見えました。



 最後の道の駅写真から2枚目。何とか戦闘機が飛び立つのをとらえたのですが、その爆音の大きいこと。思わず「あの小さいのにこの爆音。完全に違反ですよね。」などと思わず言ってしまいました。

普天間飛行場は今

 そしてもう一つ、終戦直後に米軍がまち中の住人を無理やり排除して、軍事空港を造った所。最近になって人が密集していて危険だという事で、辺野古へ引っ越すことにしたと言ういわく付きの「普天間飛行場」も見てきました。
 沖縄県宜野湾市にある飛行場で、既出の嘉手納と那覇市との間にあります。
 ここの特徴として、占める土地のうちおよそ92%は私有地(民有地)であり、およそ3千人の地主に、米軍から地代(保障金)年に60億円が支払われていることです。
 なにしろ、民有地のど真ん中。周りは民間の住宅などが密集しているところです。数々の航空事故が周辺住民へも影響を与えてきました。
 最大のものは2004年、海兵隊のCH53-Dという輸送用ヘリコプターが、普天間飛行場に隣接する「沖縄国際大学」に墜落、社会的な大問題となりました。日米両国もこれを機会にこの飛行場を代替え飛行場への移設ということになったらしいのですが、それが先の辺野古だったのです。
 辺野古計画は代替え計画というよりも、巨大新設飛行基地をとみられ、自然破壊ともあいまって、現在まで大きな反対運動になっているわけです。


 こうしてみてみますと、なるほど、基地の周辺は民家が密集。ビル群もあります。とても軍用基地が置けるところとはおもえません。辺野古もだめなら、いっそう撤去以外にないと思われるのですが、いかがでしょうか?

 この項、見られたのは飛行場の南側、嘉数台公園からでした。現地の解説によりますと、ここは沖縄戦で米軍が上陸した際、日本軍が抵抗陣地を敷き、初めての地上戦が行われた場所だそうです。普天間村の人々は、あちこちの洞窟に隠れた人と、さらに南部に逃れて人がいたそうですが、結局民間人の半数が亡くなってしまったそうなんです。
 こういったところに戦後米軍の飛行場が作られた。ということは、もしかしたら、米軍が初の地上戦の戦勝記念として作った基地なんでは???なんて、西部劇見過ぎの私としては考えたりするのですが、いかがでしょうか??

 あー、何だか文章が長くなってしまいました。ここまで読んでいただいた皆様には感謝という以外にありません。ありがとうございました。
 さいごのレポート4は沖縄旅行の残りを報告いたします。

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